第四章 人生の縮図

 

 

 冬から春にかけて僕は毎週水曜日に必ず幼稚園の前庭に行き、「フォルクスヴァルト走ろう会」のメンバーと走った。走ろう会は、あらゆる年齢層、あらゆる職業の集まりだった。

 最初に仲良くなったのはフレートである。彼とは年齢的にも近かった。古風な眼鏡をかけたまじめな男だった。おでこにつけたヘッドランプが彼のトレードマーク。彼は中学校の宗教の先生なので、ドイツでの生活の中で出会う、当地の習慣について質問するのには好都合の人物だった。走りながら彼によく質問した。

「ねえ、フレート。今度の日曜日に、友達の娘さんの堅信礼に招待されたんだけど、堅信礼って何。」

と僕が聞く。

「堅信礼というのは、ハアハア、子供たちが成長して、教会の教区の正式な一員になったことを、ハアハア、教区の皆で認める儀式なのだ、ハアハア。新教では『コンフィルマティオン』と言って十四歳で、ハアハア、旧教では『コミュニオン』と言って九歳でやるのだ、ハアハア。」

息を切らせながらも的確に答えれくれる。

 長身痩躯のミヒャエルはルフトハンザ・ドイツ航空の操縦士である。背が百九十センチはあるので、狭い操縦席ではちょっと大変かなと他人事ながら心配になる。彼に、今日は何をしていたのかと聞くと、

「今日はワルシャワまで飛んできた。」

とか

「今日はサンクト・ペテルスブルグから帰ってきた。」

とか返事が返ってくる。一度ルフトハンザのパイロットが三十パーセントという大幅な賃上げを要求し、ストライキを打った日があった。三十パーセントの賃上げ要求は、一般国民感覚からは驚くほどかけ離れたものである。ちょうどその日が練習日だったのだが、ミヒャエルが現れると、一斉に

「あ、向こうから欲張りがやってきたぞ。」

と言う声が上がり、ミヒャエルは頭を掻いていた。彼に、パイロットは大変な仕事だね、と言ったことがある。

「とんでもない。退屈なものさ。最近の飛行機は自動操縦で勝手に飛ぶ。パイロットが必要なのは、離陸と着陸のそれぞれ十五分だけ。昼飯食った後の午後のフライトなんて、眠たくて眠たくて、ときどき居眠りをして副操縦士に起こされるんだ。」

ミヒャエルはにやりとして言った。

 ずんぐりした身体に、つるつるの頭、ぎょろりとした目玉で海坊主を連想させるユルゲンは市営プールの監視員である。僕がプールへ行き、彼がちょうど働いていると、僕に歩み寄り、素早く使用済みの切符を僕に握らせて、只で入れてくれる。有難い友達である。

 僕と同じスピードで、いつも一緒に走るマティアスは十五歳。金髪で可愛い男の子である。フレートが教えている学校へ通っている。走ろう会についてレースの最中に走りながら説明してくれた奇特な女性は、彼のお母さんであった。お父さんも走ろう会に来ている。ジョギング一家である。

 その他、不履行債務の取立人のヴォルフガング。標高差一八〇〇メートルのスイスのユングルラウ・マラソンに毎年挑戦している定年間近のギュンター。試合の後、結果をコンピューター処理した表に加工してEメールで送ってくれる主将格のトーマス。様々な人が集っていた。

 コーチはラルフ。背が高く、坊主頭で、目の色が薄く、眉毛が白い。引退間近のロシア人プロレスラーという印象。喋るときはじっとこちらを見据え、無表情で瞬きもせず、口だけ動かせて喋る。一目見るとちょっと怪しげな人物だが、実は大変な世話好きで、「走ろう会」が長く続き、メンバーも八十人くらいいるのは、彼の功績によるところが大きいようだ。ときどき、メンバーに手紙をくれるが、彼の手紙はコンピューターではなく、昔ながらのタイプライターで打ってあった。

 

 年が明けて、そのラルフの六十歳の誕生日を祝う夕食会があった。四十人ほどが、練習の時とは異なり、皆それなりにきちんとした格好でレストランに集まった。僕もスーツとネクタイ姿で参加した。いつもと服装が違うと、それが誰であるのか分かるまで、少し時間を要する。メンバーはそれぞれ職業も年齢もバラエティ−に富んでいる。それでいて共通の趣味を持っているわけだから、会話が弾み楽しかった。

 食事の時に席が隣同士だったドリスという女性と、僕はもっぱら話をした。練習は月曜日と水曜日にあるが、彼女は月曜日にしか走らないし、僕はもっぱら水曜日の組で、これまで彼女とはほとんど顔を合わせたことがなかった。三十歳くらいで、「今のところシングル」という大柄なお姉さんである。眼が悪いのか、こちらの眼の中を覗き込むように、すごく顔を近づけて話をしてくる。彼女の顔が十センチの距離に近づくと、ちょっとドキドキしてしまう。 

 彼女はジョギングと共にヨガと社交ダンスもやっていると言う。(僕も走るだけでなくときどき泳いでいるように、メンバーの中には、走る他にも別のスポーツをやっている人が結構多い。)ヨガとジョギングは動きの速さに違いがあるものの、両方とも瞑想の要素があると言うか、無の境地を目指すと言うか、頭をすっきり空っぽにする点で似ているということで、僕と彼女の意見が一致した。

その後、ドリスは社交ダンスを「人生の縮図」だと言った。実際には彼女は英語の「ミニチュア」に当るドイツ語の「ミニアツーア」と言う言葉を用いた。

「ダンスは男と女の関係をそのままに表しているわ。男女の関係には波があるように、静かな踊りもあるし、情熱的な踊りもある。ある時は相手を突き放し、ある時は抱き寄せる。女性はセクシーな格好をして、自分を力いっぱいセクシーに見せるように努力するの。スリットのあるスカートや高いハイヒールを履いてね。でも、私がハイヒールを履くと、ちょっと大きすぎるかしら。」

百七十五センチはあるドリスは、更に背伸びをして僕を見下ろすように言った。

 「人生の縮図」という言葉に触発されて、

「僕は、マラソンこそ人生の縮図だと思うな。」

かなり誰もが考えつく、手垢のついた表現を、しかし本当にそうだと信じて彼女に申し述べた。

「じゃあ、きみの人生は辛いことしかないのね。」

と彼女は冗談とも本気とも判断し難い調子で言った。

「いや、マラソンは辛いことばかりじゃないよ。」

と僕が言うと、

「つまり、希望と、絶望の繰り返しね。」

と彼女はあっさりと言ってのけた。 それから、三十分間、マラソンが何故「人生の縮図」であるか、必死になってドリスにドイツ語で説明をしようとして、僕は疲れきってしまった。人生観を外国語で他人に説明するのは、とても難しいと思った。

 

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